09.×××が重なる瞬間

「…さん、明神さん。明神さん。明神さん。」

姫乃の何度目かの呼びかけに、やっと明神は反応した。

「え、あ、何?」

夢でも見ているみたいなぼんやりとした反応。

姫乃は明神の腕の中で、苦しそうに身をよじらせる。

「腕、力。入れ過ぎです。苦しい。」

気持ち片言の日本語で訴える姫乃。

「あ、ああ。ゴメン。」

やっと明神は腕に込めた力を緩めた。

緩めたけれど、捕まえた姫乃を手放す事はしなかった。

「…明神さん、明神さん。」

「……え?」

「え?じゃなくて。……返事は?」

「へ、返事って?」

「返事って?って…私が今言った事に対して。明神さんの、答え。…途中でやめちゃうんだもん。ちゃんと言って?」

そう言って口を尖らせる姫乃を、明神は混乱した頭で眺めた。

早く「返事」とやらをしないといけないけれど、今は何だかただこうしていたくて。

大体、どうして今自分は姫乃を抱きしめているんだろうかと思いながら、それはそうしたくてたまらなくなったから、であって。

でも、どうしてこんなたまらない気持ちになって、そしてそれを実行してしまっているんだろうと考えた。

今まで、抱きしめたいなと考えた事は何度だってある。

けれど、それをずっと我慢してきたのは、今までの関係が壊れてしまうのが怖かったり、拒絶される事が恐ろしかったり、今あるこの苦しくても暖かみのある毎日を失いたくないと切に願っていたからで。

勿論、年の差だとか、世間体というものも「いやいや、明神冬悟。お前は何を考えている?」と自分を抑えるストッパーとしての役目を果たしてきた。

それが全部取っ払われて、こうしているという事は。

「明神さん。」

姫乃が泣きそうな声をあげる。

姫乃としては、告白をしたのにちゃんとした答えをもらえないまま、ただ長い間黙って抱きしめられているというこの状況が理解出来ずにいた。

うん、俺もす・・・き・・・?

答えようとしてくれた言葉は何故か途中で止まった。

もしかしたら、何か勘違いをしてしまったんじゃないだろうかと不安になる。

確かに明神は、「鈍くて悪かった、好きにしてくれ」と言って、それで姫乃はキスをした。

けれどその後の明神の様子は、とても驚いていた様に見えた。

キスをした事に驚いたんだろうと思ってそのまま話を続けて…けれど目を閉じてキスをする様に促したのは明神の筈なので、そこで驚くのは考えてみると変な話だ。

しかしキスをした事自体は間違いでは無い筈。

その筈。

「明神さん。」

もう一度。

やっと姫乃を見下ろす明神。

少し困った顔をして。

「え…あの。も、もう一回、言って?」

「…え?」

「あ、頭が混乱してて。オレの聞き間違いじゃないかって。あの。心配なんだ。」

じゃあこの腕は何なんだと、この場に冷静に物事を考えられる人間がいたら間違いなく突っ込んでいる。

けれど今、明神も姫乃も「良く解らないけれど何か間違ってるかもしれない」という不安で頭がパンクしてしまっていた。

姫乃は明神の服にしがみ付き、一生懸命顔を上げる。

不安で押しつぶされそうになりながら、一度伝えた筈の言葉をもう一度。

「私、明神さんが好きだって言った。あの、友達とか、家族としてじゃなくて。男の人として、明神さんが、好き。」

言葉を聞いた瞬間、明神が大きく息を吸い、それを吐き出した。

吐き出しながら、姫乃をもう一度強く抱きしめる。

やっと気持ちが、重なった。

一人安心し、ため息を吐く明神。

「明神さん、明神さんは?」

不安気に言う姫乃。

明神に、もう迷いも不安も何も無かった。

あるのは先へと進む為の、自信だけ。

抱きしめた体を一度引き離す。

しっかりと目を合わせ、少し息を吸って。

「オレも好きだ。多分、ずっと前から。」

その言葉で、姫乃の顔が歪むと目に大粒の涙があふれていく。

「…っ、うぐ。」

「どうして泣く!?」

「う…嬉しくて。ほっとして。良かったって。」

しゃくり上げながら泣く姫乃を、明神はもう一度しっかりと抱きしめる。

やっと触れる事が出来た、眺めているだけだった小さな体。

思っていたよりずっと軟らかくて、小さくて。

長い髪は指通りが良くサラサラしている。

首筋に顔を埋めると、女の子独特のいい匂い。

明神は、今まで知る事が出来なかった姫乃の情報を、必死でかき集めて頭の中に叩き込んだ。

涙を指で拭ってやると、姫乃は嬉しそうに照れくさそうに微笑む。

姫乃は自分の頬に添えられた大きな手に、自分の小さな手を添えるとその暖かさに思わず目を閉じた。

両手で姫乃の頬を支え、上を向かせる明神。

姫乃は驚いた様に、目をぱちぱちさせる。

「…え?」

「え?ああ。えっと…。キスしてって合図かと思った。目、閉じたから。」

ドカンと姫乃の顔が爆発する。

顔を真っ赤にして首を振る姫乃に、明神は笑った。

「そ、そんなつもりじゃなかったんだよ!?」

「でもひめのん。明神さんからが良かったって言ってたし。」

「あ、あれは…!!」

「どうせなら、オレも、オレからが良かった…し。びっくりして、頭パニックになってたから、今度はちゃんとしたいなあ。」

「わ、わかった!じゃあお願いします!どうぞ!」

そう言って、顔をぐいっと寄せる姫乃。

こういう時の姫乃の思い切りの良さは、明神をいつも驚かせる。

だから先越されんだ。

自分に叱咤しながら。

「…じゃあ。失礼します。」

目を閉じる二人。

「心臓、凄い事になってる、私。さっきもだったけど。」

「オレも。」

「心拍数150位。」

「じゃあ、オレもその位って事にしとく。」

「おそろいだね。」

「だな。」

まだ何か言おうとした姫乃の口を、明神は自分の口で塞いで黙らせた。

触れるだけだったキスの感触を、もう一度ちゃんと確かめる様に。

今度は少し、深く、長く。

ああ、軟らけぇ。

唇を重ねると、何か言おうとしていた姫乃も大人しくじっとしている。

息をするのをしばし忘れ、そしてゆっくりと唇を離すと、真っ赤な顔のまま二人は下を向く。

「…オレ、本当は殴られると思ってたんだよね。ひめのんが部屋に来た時。」

ポツリと口を開く明神。

「ええ!?何で?」

「怒ってると思ってたから。朝の事。」

「…そんな事で殴ったりしないよ。失礼だなあ。」

「だよな。」

やっと目を合わせた二人は、嬉しさからか、自然と笑いがこみ上げる。

「…ふ。はは。」

「あはは。」

明神は姫乃を抱きしめる。

抱きしめて笑う。

少し早めの鼓動が重なる。

明神は腹の中で叫ぶ。

見たか、佐々木!!!!

今度会った時はもっと堂々としてやろう。

明神の頭の中で、明神は「大家さん」から「恋人」へランクアップし、佐々木は「姫乃を狙う悪漢」から「姫乃のクラスメイト」へとランクダウンした。

自分がもし逆の立場だったらと思うとぞっとするけれど、今はただ、人生最高の気持ちで姫乃を抱きしめる。

姫乃も、明神の背中に手を回し、自分がして貰った様にギュウと強く抱きしめる。

しがみ付く姫乃を眺めながら、明神はその腕からもたらされる小さな圧迫感に幸せを噛み締めた。

姫乃は頭を明神の胸に擦り付ける様にして甘えている。

その時ふと、明神は気になっていた事を思い出した。

「そういや、あの弁当って…。」

ミシリ。

「ぐっ…ふ。」

嫌な音がした。

明神のアバラの辺りで。

「……今、何か変な音がしなかった?」

恐る恐る、姫乃は明神を見上げた。

赤かった筈の明神の顔色が、心なしか赤から青へと変化している気がした。

「…いや、何でも?」

そう言って目を逸らす明神の声が震えている。

「う、嘘。だって凄く顔色悪いし、痛そうな音したし…。」

「平気だって。ひめのんに抱きつかれた位じゃ、どって事無いって。」

そう言いながら、右手をブンブン振り、左手はアバラ骨の辺りを押さえている。

「無理しちゃ駄目だって!…この辺りだっけ?」

「あぃッ!!!!!」

姫乃の指が少し触れると、明神は体を仰け反らせて転がった。

驚いて姫乃は飛び上がる。

「き、救急箱!って言うか、救急車ー!!」

「ま、まっで!き、きふ…黄布。黄布を…。」

「どこ!?どこにあるの!?」

「リビングの、ソファーの、上…。オレの、鞄の…中にっ、使いかけが……。」

ワナワナと明神の指が震える。

「わかった!!!」

走り出す姫乃の背中を、明神は痛みのせいでぼやける視界で必死に追った。

それでも今は、背中だって何だって、出来る限り長い間、目の中に入れていたかったから。


10.「長い一日の終わりと、始まりの夜」へ続く。

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